好きなものは、定まらない。いつでも。好きな音楽や映画はある。ある程度、興味の対象は統一されているはずなのに、いつもなぜだか一番を決められない。思い浮かべるあれもこれもすごく好き。そうやってさんざん思い悩んでいるうちに、話題が切り替わってしまう。「あんまり音楽を聴かないんだね。」とその人は言った。わたしはそんなことないです、と一言だけ答えた。さいきんはじめたアルバイトの、教育担当に当たる人。わたしよりも一つ年上のその人は、ひょろりと背が高く不健康な肌の色をしていて、ロッカールームにひとりでいるとき、いつもそのひとは眉間にしわを寄せていた。仕事はできるし、フレンドリーに話しかけてくれるけど、だけどどこかで他人を見下しているようにも見える。バランスよく何に対しても要領の良い人っていうのは、たいていそうって思ってしまう。そう考えたとき、わたしは自分をとても愚かにおもう。女の子ばかりの職場だけれど、その人はまるで道化みたいに張り付けた笑顔で立ち回ってる。仕事ができるだけじゃなく話題も豊富だから、みんなその人を敬っている。いわゆる古株といった感じの人なんだ。八時四十五分。夜の。早くバイト、終わらないかなあ。あと、十五分。飲食店は、だいたい五時から八時くらいまでの間、お客さんの波がピークになる。いまはようやくその波を終えたところ。一気にお客さんの出入りが少なくなり、お店の雰囲気はひっそりとしていた。茂木さんという名字のその人は、わたし以外のもうひとりのバイトの女の子に話しかけていた。

午後九時二十分ごろ、わたしはバイト先を出た。からっぽなくせして、「おつかれさまでした、お先に失礼します」とか、そういう決まり切った挨拶をするときだけはやたら元気な声が出る。わたしは店を出てから嫌だなあ、とかすこし思う。わたしは学校の制服を着ている。制服は良い。どんなに何もなくたって、自分はまだ学生だ、居場所はある、何かにいつも保護された存在って自信が多少ある。そういう枠、わたしのためだけの席。まあしょせんもうすこし時間がたってしまえばその席は、違う誰かが座ってる。けどいまはそのことが、辛うじてわたし自身を保っている。いつもはそれが重たくて重たくて仕方ないくせに、都合の良いときにだけそれに甘えようとする。学校なんて、世間に比べたら、はるかにましなものなのかもしれない。もしかしたら。それとも無条件にわたしに関係してくる存在、例えば友だちとか、恋してるひととか、そういった存在が、生温かく、優しすぎたのかもしれない。わたしはまだ大人ではない。何に対してもまだ責任を負う必要はない。だけど。不安で仕方なくなる。ときどき。淡くきれいな色彩や柔らかな光に照らされたせかい。絵空事のせかい。その間でときどきちらつく現実が、わたしのからだに圧し掛かってくる。それがわたしの抱える鉛。わたしにとってあまりにも重たい鉛。あるひとにとっては部屋を舞ってる埃みたく小さな問題なのかもしれない。例えば、茂木さんとか。だけどわたしにとってそれはとても重要な問題で、どれくらい重要かっていうと人生がかかっている。それくらい激しい葛藤だった。

名前を奪われたみたいに、ふと自分のすがたが霞んでくる、みえなくなる。組織?世間?って重圧に支配されて、自分らしさを見失ってく。じぶんも世間の一部に溶け込んでく。いつか自分もそういう風になってしまうのだろうか。そういうのに、慣れちゃうのかなあ。いやだなあ。いやだなあ。いやだなあ。お父さんもお母さんも、そうなのかなあ?働くための本来の目的って、いったいなんなんだろう。お金?でも、…そこまでして、欲しくないなあ。あったら良いけど、そこまでお金が自分にとって重要な意味をなさないのは、わたしが恵まれているからだろうか。きれいごとかな。きれいごとだよ。現実を見なよ。うん。うん。なんだか泣けてきた。

MP3プレイヤーのスイッチをオンにして、イヤホンを耳にあてる。スピッツの惑星のかけら。骨の髄まで愛してよ。僕に傷ついてよ。すこしだけ歌う。湿った夜のくうき。充分に潤っていて、適度に冷たくて、心地よい。すこしだけ雨のにおいがする。今日は、気持ちの良い夜だ。夜のひっそりと寂しい商店街を抜ける。どのお店もシャッターが閉まっている。ひとけのない住宅街。公園。自販機。コンビニの開放された灯り。生きているかんじ。動いている感じ。だけど今日はもう、そういうものに触れたいって思わなかった。自販機でコーヒーを買う。公園のブランコに腰掛けた。公園に灯った灯りは白く光っている。湿ったにおい。遠くで木の葉が揺れる音がする。コーヒーは滑らかで甘かった。少しだけブランコで揺れて、じぶんの足元にできた影をみる。わたし、生きてるのかな。ふいにそう思う。なんだかむなしくて、わたしほんとうにからっぽで、しんじゃおっかなって、ほんとうにすこしだけだけど、そうおもった。繊細な電子音が、北欧から吹くつめたい風のようななんともいえないふしぎなメロディをうたっていた。いつまでも統一してないわたしの嗜好。まるで、わたしみたい。よく晴れている夜空。銀河鉄道が降りてきて、わたしを終点まで乗せていってくれたら良いのに。大人になりきってしまうまえに。
(Jun14.2010)



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