あいつが、すこしだけ寂しそうな顔をしていたことを覚えている。だけどおれはあいつになにもしなかった。できなかった。あいつは、なにも言わなかったから。おれも、あいつも、いつからだろう。思っていることを、口に出さなくなっていった。だけどどこかであいつの考えていることを、感じとることがおれにはできた。ばかばかしい、直感なんて信じられるかよ、おれは、その日、いつもどおりバイトに行った。同じバイト仲間と談笑していた。おれは、笑っていた。 だけどおもうんだ、おれのなかには、いつだってあいつをすくうなんていう選択肢は用意されていなかった。だっておれがあいつをすくいたいと思おうが、思わなかろうが、おれにあいつはすくえなかった。せいぜいおれのできることなんて、あいつの火照った頬っぺたに、冷えた缶ジュースの缶をぺたりとくっつけるくらいのことだった。あいつは、微炭酸のサイダーが好きだった。だけどいまおもう。直感で動いてようがなんだろうが、あのとき、あの時点で、おれがあいつに触れることのできる範囲なんて、それが限界だったんだ。それくらい、おれたちは、浅はかな関係だったのかもしれない。だけどおれは、執着していたとおもう。たぶんあいつ以上に。あいつに対して。執着していた。あいつの変化にだって、気が付いていた。

お下がりの錆びた自転車。防波堤に投げ出して座っていた、細くて頼りない、白い足の脛。ちいさく無防備に丸まった背中。揺れるセーラー服の襟。癖っ毛を気にしてなにかといつも弄っていた柔らかな髪。整った鼻のかたち。あいつは、おれにたいして意味もなくいつも優しかった。おれの言うことならば、活動を中断してまで耳を傾け、何でも信じた。へえー、って、凡庸ではあるけれども感嘆の声をあげてみたり、柔らかくほほ笑んで頷いてみたり、おれの下らない話に耳を傾けては、馬鹿正直に反応した。おれはそのたび、あいつをじぶんの言葉で支配しているというような、稚拙だけれども、そういう欲求みたいなのを感じてた。それは幼いけれども、とても傲慢で、醜悪な感情だった。歪んでいた。どこかでおれは、あいつのことを、見下していた。(おれはばかなあいつのそういうところが、とても嫌いだったけど、何度もだましてやろうと思っていたけれど、) 自分の愚かさにも気づかずに。あいつは、無防備で、よわくて、優しかった。だけど、ひとりでいるときのあいつの横顔は、目は、いつだってどこか遠くを見据えていて、なにも見ていなくて、本当に、あやうくて、(まるでいまにもしにそうな―)そんな不思議な表情をしていた。すくなくとも、あいつは、世の中だとか、教室だとか、そういった現実的なせかいの断片には存在していなかった。いつもなんでここにいるんだろう、という疑問を絶えず心臓のちゅうしんに抱いているような、そんなやつだった。それなのに、だれもしんじていないような表情をひとりでいるときはいつもしているくせに、ふだん、いきているときのあいつは、柔らかい表情で、よく笑う、無防備で、よわくて、どんくさくて、優しいおれのクラスメイトだった。 いつまでたってもちいさいあいつ。幼いままのあいつ。……だけど、だって、そんな人間、どこにいたってうとまれるだろう。心ない人間とか、悪い人間なんか、この世の中にいっぱいいるんだよ、どうせあいつはそのうち傷ついていくんだよ。おれが傷つけなくたって。いずれは。おれは、嫌だよ。ほんとうに嫌だ。あいつが、おまえがとても優しくて、ひとを傷つけなくたって、ひとはおまえを傷つけるよ。おまえのしんじてるかみさまなんて、いないんだよ。そのときおまえは、傷ついて、泣きそうな顔をして笑う。壊れそうな背中をおれに見せつける。しょせん世の中なんてそんなもの、わたしはそうやっていままでいきてきた。うん。ひとりで、いきてきた。だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。そういうときあいつは、人を周りに寄せ付けない。内側に閉じこもってる。そのくせ、感情を隠すことができない。縮こまってヘソまげて、啜り泣いて、それでも誰かが救ってくれる、そんな甘えたことを思っている。まるで感情の起伏の激しい、不機嫌なこどもみたいに。いつまで空想の世界に逃避しながら生きてくんだよ。おれは、あいつを、ひきずりだしてやりたかった。あいつはおれの目にちゃんとうつっている。いきているすがたで、ちゃんとうつっている。あいつは、いきているはずなのに、まるで半透明に透けて生きていないみたいだ。視界がかすむような気がしていた。もどかしかった。とても。だからひきずりだしてやりたかった。それで、嘲笑ってやりたかった。 抜けるような冷たい青空の下、遠くで夏草が揺れている。おれはあいつを忘れていく。自分の意思に関係なく。何度も意図的にあいつのことを思い出していた。なのに、時間が経過するにつれ、忘れることが、できてしまう。あいつの声、髪を弄るゆびさき、まばたきの仕方、かみさまみたいに柔和な表情。 あの日、おれはあいつの隣に腰掛けて、あいつと話をしていた。おれはあいつの喋り方を真似して、あいつをすこしだけ怒らせた。あいつが、おれのせいで怒ったりするのは、なんだか悪い気がしなかった。空は青々としていた。潮風に乗って海独特の水のにおいが鼻孔を掠める。あいつは頼りなく細い両足をぷらぷらさせていた。「もっと自己主張したほうが良いんじゃないの」とか下らないことをおれは口にしていた。あいつはすこし考えるような表情をして、それからおれの顔を見ずに言った。「良いよ、べつに」その口調には感情が籠っていなかった。「ねえ、おまえ、何考えてるの」 あいつは、暫くたってもその問いには答えなかった。MP3プレイヤーを取り出し耳にイヤホンをあて音楽を聴いたり、文庫本を開いたりとまるでおれがいないみたいに振る舞っていた。陰鬱であるけれども静かで美しい音楽。あいつの聴く音楽はねむたくなってしまうような、退屈な音楽ばかりだ。「結び目、変になってるよ」おれはあいつのうしろにしゃがみ込み、髪に触れた。髪を結っているシュシュを一度はずし、またきれいに整えて結びなおす。あいつはぴくりとも動かない。まるで息をしていないみたいだ。貧弱な肩。試しにそっと触れてみる。制服の薄い生地越しに触れた体温はこどものそれみたく熱かった。あいつは、おれの顔を見ず、そっと唇を開く。「さみしいよ」あいつはたしかに、そう言った。掠れるようなちいさな声だった。語尾はうっすらと透けていて、その言葉自体も、意味も、すべて、くうきに乗って泡みたくすぐに消えてしまいそうだった。あまりにも非現実的で、おれは、空耳じゃないかとさえおもった。だけど、たしかに、あいつのこえだったような気がする。顔が見えない。顔を、見る勇気がない。顔を、みたくない。だからおれは、あいつの顔をみないように、あいつの肩に顔を埋めた。肌の温度も熱くって、すこしだけ汗ばんでいた。だけどどこか冷めているような。不思議な温度だった。あいつは、おれを拒絶しなかった。あいつのさっきの言葉を、なかったことにしたかった。孤独のにおいをきらう。ほとんどの人間は、みんなそうだ。そういったにおいのする人間を、ひとは無意識に避けている。おれだってそう。だからゆるせなかったんだ。「ごめん」「なに、どうしたの」あいつは、笑っていた。 つぎの日、あいつは学校に来なかった。そのつぎの日も、そのまたつぎの日も。一週間たっても、一か月たっても。おれのなかであいつはあの防波堤に脚を投げ出して座っていたときの姿のままだ。おれは、あいつのすきな微炭酸のサイダーを、飲んだ。あいつは泣いていたんだ。あのとき。 20100705



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