わたしは今日もバスに乗っている。ときには座って、ときには立って、いつも、毎朝、窓の外の景色を眺めている。バスはいつも平たんな並木通りを走っている。景色はいつも単調で、目立つ建物や看板等がいっさいない。ただ、自転車で走っている人たちをやたらたくさん見かける。その人々は学生服に身を包んでいて、たいていの場合わたしと同じ学校に通う人々だ。だいたいみんな前髪を風であおられて、額が全開になっている。バスのなかで窓の景色を見ているのと、外で景色に触れるのとでは、きっとまったく違うんだろうなとか、そんなことを考える。学校から家までが近い人は、たいてい自転車で通学している。わたしは並木通りを自転車ですいすい走る人たちを目で追う。 いつも決まった時間に登校し、いつも決まった時間に下校する。習慣をつけることにより生活という枠の中に辛うじて自分が存在できているような感じがする。とくに目立つ性格でもなくとくに目立った取り得のないわたしは、学校のクラスの中でもとくに冴えない位置にいた。目立たないように、目立たないように生活していた。べつに、意識して目立たないよう生活してきたわけでは決してない。わたしだって、少なからず希望を抱いて、いまの高校に入学した。だけど目立つことをしたい、高校生活において何かしたい、高校入学を機会に自分を変えたい、というような気持ちは、他のみんなよりかは薄かったようにおもう。わたしは昔から、自分に対して無関心なところがあった。というより、わたしは周りの子たちと比べて幾分か、機転という能力に劣っているのではないかとおもう。 そんなふうに途方に暮れているうちに、勢いのある周りに流され、わたしは必然的にクラスの中でも目立たない女子としての位置を確立するようになっていた。まあようするに、わたしはごく普通の、ありふれた女子校生なのだ。そんなわたしだからこそ、ときどききちんと生活できているのかどうかとか不安になる。遅刻をしたり、学校をずる休みしたり、そうやって生活が乱れると、ますますその不安感は増してきて、自分のすがたがどんどん透明に、希薄になっていくような感じがする。それに他人に映るわたしの姿というものは、きっと本当に印象の薄いものだと思うのだ。だから学校を欠席するなど少しでもわたしの存在が揺らぐことがあれば、きっとすぐにみんなのなかからわたしは消えてしまうだろう。だから決してわたしは遅刻をしたり学校をずる休みするなんてことはなかった。 例えばわたしの生きている日常が映画なら、わたしは決して主人公にはなれないと思う。きっと二秒ほど画面の端に小さく映る、そういうエキストラみたいな役を課せられた存在なんじゃないかと思う。だけどそういう存在にだって人生があるのだ。初めて高校の制服に身を包み、鏡を見たとき、わたしは思った。人生を生きていこうと。人生に投げやりになろうとも結局わたしはわたしでしかないのだから、わたしが幸せになることに越したことはない。頭の片隅でそんなことを思いながら、鏡の前でくるりと一周まわってみた。プリーツスカートがひらりと揺らいだ。 真新しい制服はまだ生地がかたく、ひんやりと冷たくて、肌に馴染んでいないような感じがして、体がこわばる。ピカピカのローファーだって、まだ足に馴染んでいない。だけど真新しいものに身を包むと、なんだか気持ちがしゃんとする。 大衆向けの派手な映画でなくても良い。レンタルビデオ店の端にひっそりと佇むような、(欲を言うなら芸術的な)短編映画。主人公でなくても良い、せめて二言三言は台詞のある、脇役になりたい。一部分でも良いから、わたしの人生にも物語があるのだと思いたい。そんなことを思った、十五歳の春。

目の前をちらつく大量の桜の花びらと、桜並木の枝の先に垣間見るぼんやりとした空の青。わたしは、バスを待っていた。そのときばかりは、わたしはバスの外で生きていて、目のまえの景色はすべて肉眼で捕えていた。現実を生きているような感じがした。恋を、してみたいと思った。なんでだか、そのとき、つよくそう思った。



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