むかし住んでいた街で、毎日のように使っていた私鉄から見える窓の風景は、いつも変わり映えのしない、退屈なものだった。変わるものといったら天気くらいのもので、目に眩しい色合いの田園が広がるわけでも海や川が見えるわけでもなく、ただ日本という国にありふれた、どこにでもあるような住宅街や小さな公園、学校など退屈な風景が広がっていた。もしこの風景が延々と日本の果てまで続くのだとしたら、と思うとうんざりした気持ちになった。都会でも田舎でもない、中途半端な街だった。ときどき、はるか遠くのほう、坂道のてっぺんに立つ家々を眺めながら、いつか死ぬまでにあの場所を訪れることがあるのだろうか、とぼんやりと考えた。そして電車を降りるころにはもう、そんなことは忘れている。外を歩いていると季節が変わったことくらい肌で感じるものだけど、でもその私鉄に乗ってしまうと、季節が変わったことすら忘れてしまう。イヤフォンを耳に当てていたり、携帯をいじったり、ときには読書したりしながら、ふと顔をあげて、窓の外の風景を見つめる。そしてわたしは一年通してずっとこんなことを繰り返している、よく飽きないなあ、とか、そんなことを思いつつ、またぼうっとしてしまう。なんとなく体の力が入らなくて、目を閉じて、眠ったふりをする。がたんことん。がたんごとん。目を閉じていても、朝の日の光の眩しさを瞼越しに感じる。

高校生のころまで住んでいたあの街で、わたしは毎日のようにあの私鉄に乗って、学校に通っていた。中高一貫の学校に通っていたから、中学生のころからわたしはずっと電車通学だった。小学生のころからの友達はみんな地元の中学に進学した。高校に入学してからはわたしと同じように電車通学する子も少なくなかったけれど、一か月に何度か、駅のホームや電車内で、稀に顔を合わせる程度で、そのころにはもう殆ど話をすることもなくなっていた。わたしの人間関係は、小学生のころから今まで、学年やクラスが変わったり、進学したりすることで、絶え間なく変化していった。わたしの内面も変化した。だからといって友達は多いほうではなかったし、特別仲の良い友達がいるというわけでもなかった。わたしはいつだって、てきとうにその場をやり過ごしていた。それはいまでも変わらない。ただ大学はいままでのようにクラスという制度がないので、いつでも誰かと一緒にいる必要はないと思った。だからわたしは学校にいる殆どの時間を一人で過ごしていた。演習や必修科目の講義には友達や知り合いがいて、一日友達と一緒にいることもあったけれど、そういう講義のない日は、一日一人で過ごしていた。

それは大学特有の、長い長い春休みのことだった。そのときわたしは一年続けていたアルバイトを辞め、長期休みに何をすべきかなど全く予定をたてていなかったので、久しぶりに実家へ帰省することにした。試験が終了してからはじめての土曜日、ちょうど実家から電話があり、特に断る理由もなかったので、帰省することにしたのだった。 そうしてわたしはいま、高校生のころまで住んでいた街の、私鉄に乗っている。定期試験が終わり、春休みがはじまったのは、2月の2週が過ぎたころだったから、外はまだまだ冷え込んでいて、吐く息は鮮明に白かった。電車の窓から見える風景は相変わらずで、わたしが高校生だったころと、何ら変わりはない。この街に戻ってくるのは2年ぶりだというのに、まるであのときのまま時間が止まってしまっているかのように、おなじ風景が広がっていた。なつかしいというよりも、あのころとおなじ時間に戻ってきたような、どこかふしぎな感じがした。だってわたしは、高校生のころと同じように、車両の一番端の席で、イヤフォンを耳にあてながら、うとうとと船をこいでいたり、ぼうっと窓の外の風景を眺めたり、文庫本をペラペラ捲っていたりしているのだから。ただたしかなのは、もうとうの時間に通学、通勤ラッシュが過ぎてしまっているということと、わたしが制服を着ていないということ、それがわたしはもう高校生ではないのだということをわたしに自覚させていた。 2月の平日、真昼間。電車はとても空いていた。空は薄曇り。外の風景と電車内では、まるで違う世界であるみたいにかんじた。時間の流れも、違う気がした。

がたん。ごとん。がたん。ごとん。

なにをおもったのか、わたしは、じぶんの下車するはずの駅を乗り過ごした。そういえば、その私鉄の、下り方面の終着駅には行ったことがなかった。下りの電車はいつもすいていた。小さいころ、近所に住んでいて、よく家に遊びに来ていた男の子がいた。整った顔立ちをしていて、いつも落ち着いた雰囲気を持っていて、女の子によくもてる。彼はわたしの姉の幼馴染にあたる少年で、家のすぐそばのアパートに住んでいた。彼は姉と同い年だった。わたしもよく一緒に遊んでもらっていて、よく3人で一緒にゲームや鬼ごっこ、かくれんぼ等をして遊んだ。いっしょに夜ごはんを食べたり、クリスマスパーティーをしたり、大みそかを一緒に過ごしたり、わたしたちはほんとうに仲が良かった。姉は彼のことを夏樹と呼んでいた。わたしは彼のことを夏樹くんと呼んでいた。彼は中学校に上がると同時にあの私鉄の下り方面の、終着駅の街に引っ越していった。それからというものわたしは夏樹くんと疎遠になってしまったけれど、姉はまだ彼と連絡を取り合っていたらしい。それから二人は相変わらず、仲の良いまま大人になった。姉はわたしと同じ都会の私大に進学し、彼は地元の国立大学に入学した。姉はいま大学院に進学してまだ学生を続けている。夏樹くんは、いまどうしているのだろう。 いまではそう思わないけれど、あのころ、夏樹くんが引っ越してしまったとき、夏樹くんがずいぶん遠くに行ってしまったような気がして、もう二度と会えないような気がしていた。だけど大人になってこうして終着駅まで来てみると、そうたいして遠くもない。わたしや姉が、このちいさな街を出て、都会暮らしをするほうが物理的に距離がある、だけどあのころを想うと、夏樹くんがこの私鉄の終着駅に引っ越してしまうほうが、はるかに遠くに行ってしまったことのように思えるのだ。

一駅一駅の感覚が狭く、短時間で次の駅に停車するこの私鉄が、終点駅に停車するのにはそう時間がかからなかった。相変わらず窓の外の風景は変わり映えがしない。見慣れない風景だなあとは思ったけれど、とくに大した変化はない。終点駅に着いても、人は疎らだった。わたしはもうずいぶん長い間この私鉄を使い続けてきたけれど、下り方面の終点駅には初めて下車する。殆ど人はいなかった。駅の改札前で乗り越し清算をし、切符を通す。駅の外に出る。わたしの住んでいる街と、おなじような風景がひろがっていた。ただ、駅前には牛丼屋、レンタルビデオ店、弁当屋、ゲームセンターなど、いろいろな店が並んでいて、駅周辺は繁盛している感じだった。ただ、上り方面の駅周辺のような賑わいや華やかさはなく、どこか寂しげな感じがした。空は灰色に曇っていて、ぱらぱらと雨が降っていた。なんとなくレンタルビデオ店に立ち寄った。個人経営のお店らしい、こじんまりとしたお店で、奥のほうに仏頂面のおじさんが座っていた。オカルト、ホラーが置かれているコーナーに移動すると、見覚えのある横顔が目に入った。褐色の髪。色白な肌。端正な横顔。鼻のかたち。目の下のほくろ。わたしがどこかで見たことのある顔だなあ、とばれない程度にそのひとの顔を見つめていると、そのひとはわたしの顔を見た。そして、唇を開き、こう言った。
「千春ちゃん?」
やっぱりそうだった。わたしは、さっきまでなんとなくこのひとのことを考えていて、そしてむかしこのひとが引っ越していったこの街に、思いつきで下車して、そしてさらに思いつきで立ち寄ったレンタルビデオ店でこのひとと顔を合わせた偶然に、驚いていた。しばらく言葉がでなかった。ようやく「夏樹くん?」とわたしは聞いた。「うん、」と彼は答えた。そして彼は、まるで日頃から付き合いのある友達と偶然顔を合わせたときのように、ごく自然な口ぶりでこう聞いた。
「ホラー映画を探してるの?」
とても、落ち着いた声の調子だった。わたしと夏樹くんは、何年ぶりかの再会なのに、お互いに「ひさしぶり」とか、やたら声を高らかにして笑ったり、そういう感嘆の表現をしなかった。再会する相手が夏樹くんじゃなかったのなら、わたしは感嘆の声をあげていたかもしれない。ひさしぶり、とかそういう挨拶をすっ飛ばした夏樹くんの問いに、わたしは答える。
「うん。寒くなるとなんだかむしょうにシャイニングが見たくなっちゃって」
「なんとなくわかる気がするよ。今日みたいに冬の寒い日の夜に見るには、良いと思うよ」
「うんと寒い日の夜に見るのが良いね」
「ジャック・ニコルソンの演技が凄いんだ」
夏樹くんはひとりごとのようにぽつり、とそう言った。
「夏樹くん、ホラー映画とかみるんだね」
「ホラー映画ならなんでも見るよ。あ、これ。すごくこわいよ」
夏樹君はDVDを1枚棚から取り出して、わたしに見せた。悪魔のいけにえと記されていた。わたしは裏面のあらすじに目を通す。そしてそれを元の棚に戻した。
「おどろおどろしい話だね…。わたしにはまだハードル高いや。お姉ちゃんと三人でホラー映画見てたとき、夏樹君こわがっていたのにね」
「若ければ若いほど、趣味嗜好はころころ変わるものだよ」
夏樹くんは、すこし俯き加減にわらった。夏樹くんの笑い方は、むかしとちっとも変っていない。夏樹くんは、静かに笑う。決して声をあげて笑ったりしない。夏樹くんはいつも落ち着いていて、ひっそりとした静謐な雰囲気で、まるで冬みたいなひと。喋り方だって、ひとことひとことを丁寧に発音する、静かだけどよくとおる声。だから夏樹くんの話すことは、いつも深みがあって、正しいと思ってしまう。わたしと夏樹くんは、しばらくDVDを物色したあと、レンタルビデオ店の外に出た。
「夏樹くんが引っ越しちゃったとき、随分遠くに行っちゃったような気がしたな。下り方面の、終着駅なんて」
ことばと一緒に、白い息が吐き出される。店内は暖房がきいていたせいか、外がとても寒く感じた。
「終着駅っていっても、前に住んでたところからだいたい電車で30分もあれば着くんだよね。その30分の間に停車する駅がやたら多いから、きっと遠く感じるんだよ」
夏樹くんは、しみじみとそう言った。
「ところで千春ちゃん、何かここに用事でもあったの?」
「すこしね。でももう済んだよ」
わたしはうそをついた。別に用事なんてなかった。ただふらふらとしていただけだ。夏樹くんはすこし考えるような顔をして、それからわたしの顔をじっと見て言った。
「映画見にいかない?」
突然の誘いだった。「いまから?」「何か予定あるなら良いよ」「ううん。そういうわけじゃないの。ちょうどこれからどうしようかと考えていたところだったから、ちょうどよかった」わたしがそう言うと、夏樹くんはそう、よかった、と一言だけ言って、すたすたと前を歩いていった。夏樹くんはひょろりと背が高い。わたしはその少し後ろを歩いた。映画館は、こじんまりとしていて、短編の映画や昔懐かしの映画を上映している古い映画館だった。 最近の映画は上映していないのだという。年季の重ねた建物で、館内もふるいにおいがして、すこしほこりくさかった。座席の数も、シネコン等とくらべるとすくなかった。だけどチケットは安くて、400円くらいで映画を見ることができた。

映画を見終わり、本屋をひやかして、寂れた博物館に入った。博物館は煉瓦造りの建物で、その奥に巨大なドームが建っていた。「プラネタリウムだよ」と夏樹くんは言った。本来ならばこどものための博物館で、おとなが出入りしても良いものかとおもったけれど、夏樹くんは「大丈夫だよ」とだけ言った。夏樹くんはこどものころ、よくここに一人で来ていたらしい。宇宙をテーマにした博物館で、わりとおおきなプラネタリウムがある。平日はまったくひとけがないけれど、これでも土日になるとさまざまなイベントが催され、こどもを中心にたくさん人が集まるらしい。わたしたちは入場料を支払い、博物館の中へと入った。夏樹くんはロボットだとか宇宙ステーションを再現した科学に纏わる展示物には一切目をくれず、プラネタリウムのほうへと向かっていった。プラネタリウムの席につく。室内が暗くなって、いくつものいくつもの、数えきれないくらいの星が映し出される。解説がはじまる。星が、肩や髪、手の甲などに落ちてくるような感じがする。夏樹くんにも星が降り落ちていた。夏樹くんが、ぽつりと言った。「ここに来るとおちつくんだ」それ以降、夏樹くんも、わたしも、なにも喋らずに、ただただナレーションに耳を傾け、ドーム全体に映し出される宇宙にじっと視線を落としていた。



博物館から出ると、もうすっかり日が暮れていた。とっぷりと日の暮れた空から冷たい雨が降りしきっていて、わたしたちはコンビニに入り、傘を買った。ビニール傘にポツポツと雨の当る音が響く。わたしたちは駅の方へ向かって歩く。夏樹くんは、余計なことをあまりしゃべらない。わたしのすこし前を歩いていた夏樹くんが、言った。
「ねえ、千春ちゃん」
「なに?」
「元気だった?」
夏樹くんは、こちらにすこし顔を向けた。
「いまさら?」
「うん」
「まあ、それなりに」
「そっか」
ちんもくを埋めるように降りしきる雨の音。
「夏樹君は?」
「それなり」
「どう?大学」
「…高校生のころまでにくらべると、静かになったものです。それはすこしさびしいかな」
「そっか、千春ちゃん、いま一人暮らしだもんね。ねえ、お姉ちゃん、元気?」
今日、夏樹くんと会って、はじめてそういう話をしたような気がする。そういう話をしていても、夏樹くんは歩く足をとめない。
「連絡とってるんじゃないの?」
「連絡をとっているだけで、もう何年も会ってない」
夏樹くんはわたしのすこし前を歩いていたから、夏樹くんの表情を見ることができない。
「忙しいみたいです、お姉ちゃん、生真面目だから」
「千春ちゃんには言ってなかったけど。中学生のころから、ずっと付き合ってたんだ」
わたしは思わずぴたり、と歩く足をとめた。なぜだかそのとき、心臓がどきり、と大きな音でひとつ、鼓動した。夏樹くんも、足を止める。ブランコとすべりだい、砂場とベンチがあるだけの、ちいさな公園の前だった。公園の電灯が白く光っていた。降りしきる雨を照らしていた。夏樹くんは、わたしの顔を見る。おもえば今日、はじめて夏樹くんとちゃんと目を合わせたような気がする。
「付き合うって、恋人同士ってこと?」
こくり、と夏樹くんはうなづいた。夏樹くんはいつも眠たそうな目をしている。
「中学生のころは、メールも電話も毎日してた。高校生のころも、ずっと。高校生のころは何度も会ったよ。放課後待ち合わせして、こんなふうにデートしたりね。けどね、大学に進んでから一気に疎遠になっちゃって。受験のときからだったかな、連絡が減ったのは」
”こんなふうにデートしたりね”
夏樹くんは、言葉をつづける。
「でも、ふしぎな子でね。俺がそういうこと考えてると、とつぜん長文のメールがきたり、電話がかかってきたりしたんだ。あいつ、全くかわらない様子で、そういうメールやら電話やらときどき来るたび、安心したよ。でも、大学に進んでからは、メールも電話もこなくなった」
わたしは、なにも言えなかった。言葉が出なかったけど、でも夏樹くんはそんなことを気にしていないような様子で、ただひとりごとのようにぽつりぽつりと話をしていた。わたしと向き合った状態で。わたしは、夏樹くんの話しているあいだ、ずっと夏樹くんの目を見ていた。夏樹くんも、わたしの目を見ていた。夏樹くんは、深い、澄んだ目をしていた。姉は、夏樹くんのこの目に、(たぶん)とてもあいされていたのだと、なんとなくおもった。

駅のホームで、わたしは言った。駅に着くころにはもう、雨が雪に変わっていた。まわりはしんと静かで、駅の構内は相変わらず人が疎らで、しんみりしていた。
「お姉ちゃんのこと、いまでも好き?」
「好きだよ」
夏樹くんは、じんわりと、そう言った。
「会いにいかないの」
「タイミングを失ったんだ」
夏樹君は、すこしかなしそうな、さみしそうな目をして、わらった。それから、「じゃあね」と言った。「今日はたのしかったよ」とも。わたしは電車に乗り込む。発車のベルが鳴る。夏樹くんが軽く手をふる。わたしはなにか言おうとしたけれど、なにも言葉が出なかった。開きかけた唇を閉じた。そのとき、夏樹くんの顔がぐっと近づいてきて、キスされた。それから、夏樹くんはわたしの顔をじっと見つめて、すこしわらった。扉が閉まる。夏樹くんが、窓越しにわたしを見ていた。深い目だった。わたしは視線をそらすことができなかった。電車が発車する。窓に手を当てて、夏樹くんを見る。夏樹くんも、わたしのことを見ていた。見えなくなるまで、ずっと。わたしは夏樹くんが見えなくなっても、扉側に立って、窓の外を見つめていた。街の明りが点々と輝いていた。さきほどのプラネタリウムの星とちがって、ずいぶんと寂しいものだった。わたしはすこし泣きそうになる。そしてたぶんもう二度とこの駅で降りることはないだろうと、ぼんやり思った。夏樹くんとこういうふうに会うこともきっと、ないのだ。



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